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インタビュー

ミノオカ・リョウスケさん


工作会、紙しばい道場、鉄道談義などで小田原駅東口図書館にご協力いただいている図工作家のミノオカ・リョウスケさんに、仕事のあれこれについてお話しをうかがいました。

絵本や紙芝居も出版されているミノオカさんが図工作家と名乗っているのはどうしてですか。

ミノオカ:もともとは色々なジャンルの仕事をしていて、絵を描いたり、立体を作ったり、やっていることはいわゆる「図画工作」でしたので、それを包括する意味で図工作家と名乗っています。図工にはこだわりがあって、専門学校で教えていたとき、他の講師が学生の稚拙な作品に対して、「図工じゃないんだから」と指導していたのには違和感がありました。完成度の高いものを作れよってことでしょうけど、そのような図工の考え方は違うなって思いました。図工は図工で楽しみもあるし、バカにするものでもありません。作ったり描いたりすることに楽しみを見出すものなので、あえて図工という言葉を使っています。

色々なジャンルの仕事とは具体的にどんな仕事ですか。

ミノオカ:最初の仕事は、ディスプレイの仕事です。ディスプレイデザイナーとして仕事を始めました。

えー、ちょっと遡らせてください。ミノオカさんは確か教育学部でしたよね。

ミノオカ:大学は教育学部の美術科で、卒業して教員免許も持ってます。

学校の先生にならなかった理由はありますか。

ミノオカ:別に先生を目指して大学に入ったわけではなくて、成績の関係で教育学部の実技系(美術・体育・音楽)に行くしかなかったんです。農学部の森林工学を希望していたのですが、入れなくて。

失礼な質問ですが、ちゃんと受験勉強はしていましたか。

ミノオカ:映画ばっかり観てました(笑)。年間300本くらい。

それはすごい!

ミノオカ:安かったんですよ、当時は。映画館は落ち着くし。でもどこかの大学には入らないとまずいので、共通一次の得点で入れそうな大学に入りました。実は陸上も得意で、リレーでインターハイにもでたんですよ。なので、推薦で体育大学には入れたのですが、球技が苦手だったので美術科かなということになりました。

インターハイ出場はすごいですね。大学でも走ったのですか。

ミノオカ:はい、陸上部でした。

バリバリの体育会系ですね。クリエイティブ系の人って意外と体育会系の人が多いような気がします。偏見かもしれませんが。体育会での経験が役に立ったということはありますか。

ミノオカ:体育会系がいいかどうかはわかりませんが、言われたことにはすぐにハイっと言ってやる習慣はつきましたね。それと、勝ち方を経験した、ということですか。勝ったことがある人は、成功体験があるわけで、すべてに当てはまるわけではないんですが、なんとなくわかるんですよ、こうしたらうまくいくってことが。

ということは、例えば絵本の世界で言えば、ただがむしゃらに絵を描いていれば絵本作家になれるわけではないということですか。

ミノオカ:そうだと思いますよ。勝った経験がある人はゴールまでの“勘”がよくなると思います。私は運がよかっただけかもしれませんが、陸上で勝った経験が結構自分の中で生きていると思います。

話を戻しますが、どうしてディスプレイ関係の仕事についたんですか。

ミノオカ:先生にはなりたくなかったので、美術で就職するにはどうするかを考えました。デザイン関係ならどこでもよかったんですが、紹介の紹介で結果的に大手のディスプレイ会社に入ることができました。

職場を紹介してもらえるということは、ミノオカさんの人間性が素晴らしくて、付き合いがあった皆さんに気に入ってもらえたということですよね。

ミノオカ:気に入ってもらえましたね(笑)。なぜか。

仕事は順調でしたか。

ミノオカ:入社した当時はディスプレイのデの字も知りませんでした。図面も描けなかったので、入ってから勉強しました。そんな状態なので仕事はできなかったのですが、結構負荷をかけられて、有名企業の展示会、博覧会などの担当にさせられたりして、追い込まれて現場で仕事を覚えたんですよ。現場の職人さんにはいろいろ教えてもらいました。今でも職人さんと話をするのは好きですよ。

ディスプレイの仕事は長かったんですか。

ミノオカ:3年くらいでした。

なぜ3年で辞めちゃったんですか。

ミノオカ:仕事がきつかったんですね。それで辞めるのには納得してもらう理由が必要だったんで、咄嗟にアメリカに行くと言って辞めたんです。

退職後ほんとにアメリカに行ったんですよね。

ミノオカ:行きました。ニューヨークに2年いましたけど、実際に仕事をしようとすると語学力がなくてしんどかったです。面接で話が通じなくて「帰れっ」と言われたこともあります。それでも新聞のカットを描いたり、デザインの仕事もしたりしていたのですが、それ以上先に進むことができませんでした。それから事情があって日本に帰って来ました。それで今度は東京にでて、フリーランスでディスプレイ関係の仕事やパースの仕事をしていました。

絵本を出版することになったきっかけを教えてください。

ミノオカ:仕事とは関係なく絵本の出版社の人と遊んでいたんですよね。たまたまその方に絵を見てもらったときに、絵はどうでもいい、物語ありきだと。物語を書くか、物語に絵をつけてくれ、と言われて、それから絵本を学びだしました。その内に仕事の一つとして絵本を創りたいと思うようになりました。

特に絵本作家になりたかったわけではないんですね。

ミノオカ:そうですね。でもその後絵本に関しては進展もなくて、紹介で専門学校の非常勤の講師もやったりしていて、そうこうしているうちに子どもが生まれて、編集者から子どもも生まれたし、車の絵本でも描いてみればと言われて、企画を出したらそれが通って、絵本を出版することになりました。

結果的に人脈ですね。

ミノオカ:運が良かっただけかもしれません。変な欲がなかったのもよかった。絵本だけではありませんが、言われたことが意外とできて、器用だし、仕事も早くて重宝されました。便利な奴だったんです。それで色々声がかかるようになりました。できなかったことや失敗もたくさんありましたが、経験をつむとできるようになって、色々やっているうちに向いているものが残ったといことですね。

出版社系の美術学校のインストラクター時代には、子どもの美術教室も担当されていたとか。

ミノオカ:子どもの教育にすごく興味があったわけではありませんが、図工の先生の集まりで東京都の図工研究会に参加したり、会合に出たりして先生方からは面白がられて、色々学びました。そこでまた人脈が広がって子どもの美術に対する知識も関心も高まりました。

色んなところに顔をだすミノオカさんの行動力がすごいですね。

ミノオカ:好奇心は強いです。それと自分自身に負荷をかけて無理矢理行く。これは体育会系の考え方です。勉強より現場に行け、という思考。この考え方が人脈を広げたのだと思います。現場主義かもしれせん。結果的に、それが仕事につながることが多かったです。

最後に本についてお聞かせください。本はよく読まれますか。

ミノオカ:本は好きでよく読んでいます。活字中毒です。いつも何か読んでます。特定の本からの影響はあまりないと思いますが、よく考え事をするので、自分の考えがまとめられていると感じる本と出合うと感激します。

ティーンズ世代にも一言お願いいます。

ミノオカ:本は読んだ方がいいと思いますけど…新聞は読んだ方がいいと思います。

それはどうしてですか。

ミノオカ:情報が一覧でみられるじゃないですか。活字があれほど並んででてくるものはないですよ。個人的に新聞を拡げて眺めるのが好きなんです。会社員のときも出社してまず新聞を読んでいる嫌な新入社員でした。勉強ですと言い張ってましたけど。そして新聞には現場がつまっている(笑)

確かに!ミノオカさんの現場主義に繋がりますね。

ミノオカ:知識は必要ですが現場が大事です。何とかならないかもしれないけど、現場に出たほうがいいことが多いです。

好奇心と現場が大事、ということですね。長時間ありがとうございました。

プロフィール

ミノオカ・リョウスケ
神戸市生まれ。滋賀大学教育学部美術科卒業。1987〜1989年The Art Students League of NewYork(USA)在学。絵本・図工作家として活動。絵本に『じょうききかんしゃビーコロ』(童心社)、『まんまるダイズみそづくり』(福音館書店)、『どんどんキップ』(鈴木出版)、紙芝居に『はしの上のおおかみ』(鈴木出版)、図工本に『小学生の絵画とっておきレッスン』。