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インタビュー

須藤館長


2021年に小田原駅東口図書館で開催した「すどう美術館コレクション展」。また、「もあ展」でも大変お世話になったすどう美術館館長の須藤一郎さんにお話しをうかがいました。

東大法学部を卒業され、保険会社でも順調なサラリーマン生活を送られていた須藤館長が、どうして美術にのめり込んでしまったのかを知りたいです。まずは、美術とのかかわりを教えてください。

須藤:小学生の頃、通信簿の図画の成績が「良上」だったのがコンプレックスになりました。

良上でコンプレックス?

須藤:他がすべて優だったので(笑)でも負けず嫌いの性格でしたので、中学生のときにはがんばって絵のうまいグループに入れられて、賞も取ったりしたのですが、絵を描くことは嫌いでしたね。その後大学は法学部で、会社でも人事部、企画部の仕事で美術とは無縁の生活を送っていました。多少美術とかかわるようになったのは結婚後で、妻の実家で大手印刷会社の下請けとして世界の名画の複製画を作っていて、そこからもらってきて家に飾ったり近所に配ったりしていたのですが、それを観ているうちに実物が欲しくなって、花や風景の絵を少し買ったりしていました。

まだ現代美術ではなかったのですね。

須藤:そうです。現代美術との出会いは、今から40年前の1982年に、たまたま妻の親戚の近くにあった池田20世紀美術館に行ったときです。そこで菅創吉の絵に出会いました。名前も聞いたことのない画家の絵でした。最初の印象は、形があるようなないような暗い絵で、「こんなのが絵なのか」と思っていたのですが、見終わる頃には、180度考え方が変わり、メルヘンとかユーモアとか温かみを感じ、菅創吉の絵に対する姿勢、人生に対する姿勢も伝わってきて、「こういうのが本当の絵かもしれない」と思うようになり、すぐに作品が欲しくなって美術館の館長の部屋に行き、「この人の絵が欲しい」と伝えました。すると館長は、「それはいいことです。すぐにお持ちなさい。お金はいつでもいいです。」といわれました。

絵が欲しいと思って館長をすぐに訪ねる須藤館長の行動力もすごいですが、美術館の館長の対応もすごいですね。

須藤:買ったのは館長室にあった絵で、大きさは8号で当時48万円でした。何も払わないわけにはいかないので、妻と手持ちのお金を数万円置いてきました。実は菅創吉が2、3日前に77歳で亡くなっていて、館長が葬儀委員長をされ、お葬式が終わったところらしいんです。ですから私は菅創吉には一度もあったことがないのですが、菅創吉の絵との出会いには運命を感じました。家に帰って絵を家に飾ったときの感動は忘れられません。これがすべての出発点です。それからこの作家の他の作品も見たいと思い、姫路市と神戸市の美術館に作品があると聞き、すぐに見に行きました。また大阪、東京に1か所ずつ取り扱う画廊があることがわかり作品を買い増ししました。画廊には他の作家の現代美術作品もあり、気に入った作品を買うようになり、作品がだんだん増えていきました。

何点くらい買われたんですか。

須藤:寄贈いただいた分を含め今は700点以上収蔵しています。

それはお金が大変でしたね。

須藤:二人の子どもが何か買いたいとか、どこかへ行きたいとかいっても家にはお金がないからといって断っていたので、子どもは不幸せでした(笑)妻とは考えの違いも多くありましたが、絵を買うことには反対されませんでした。私は絵を買う時の心境を「真剣勝負の衝動買い」といっています。

美術館を始めたのはどうしてですか。

須藤:絵に囲まれる生活を送るようになってからは、「絵の役割とは何か」ということを考えるようになりました。絵は買うたびに感動があります。その感動を知ってほしいと思い、いろんな人に見てもらうべきと思いました。1990年に町田市の自宅を開放して、集めた絵を2ヶ月ごとに掛け替えて見ていただくことを始めたわけです。絵を見ていただくので、美術館としました。まだ会社勤めをしていたので、開館したのは木金土日で、仕事が終わってから夜中まで絵の掛け替えをすることもありました。サラリーマンが自宅でへんなことを始めたというので、少しずつ話題になり地方紙からも取材がありました。美術館では発表の場がない作家の展示や講演会や講座も行ったりしました。菅創吉についてはデッサン集などを作ったので、それを持って公立の美術館を回ったりしたのですが、美術の学歴もなく、賞歴もない菅創吉を取り上げてくれるところはありませんでした。そんな中、妻と資料を持って行ったNHKの日曜美術館のエグゼクティブディレクターが、菅創吉に強い関心を寄せてくれ、取り上げてくれることになったんです。日曜美術館で40分放映されると、すぐに飛び込んできた人もいましたし、電話はなりっぱなしで、全国から2ヶ月で2,000人を超える人が来ました。事件でした(笑)NHK側でも田中一村の放映以来の反響だったそうです。

まだサラリーマンを続けていたんですよね。

須藤:そうです。それで62歳で会社を終わることになり、美術館も8年やったので終わりにして、これからは海外旅行に行ったり、好きな本でもゆっくり読んだりして過ごそうと思っていたのですが、周りの人がそうはさせてくれなかったんです。ただ家で美術館を続けるには限界もあって、新たに場所を探していたときに、人から紹介があって、銀座に50坪のギャラリーを開設しました。

50坪!銀座にしてはすごく広いですね。

須藤:清水の舞台から飛び降りました(笑)会社組織にして10年ほど運営いたしました。美術を身近に感じてもらうために、定期的な演奏会、演劇、落語なども行い、絵を見に来られない人のために、出前美術館と称して、北陸をはじめいろいろなところにコレクションの作品を持参し、絵を見てもらうこともしました。また「若き画家たちからのメッセージ」展の名で、すどう美術館賞を設けて作品を買い上げたり、個展の場所を提供したり、また、海外留学制度を制定したりと、若い作家の支援なども積極的に行いました。資金繰りは大変でしたが、周りの人にも恵まれていい経験でした。

それから小田原に活動の場を移されたのですね。

須藤:2007年の夏に縁あって小田原市に移り住み、ここでも自宅を美術館として開放しました。国内外のアーティストの支援を目的とした「アーティスト・イン・レジデンス」の活動や「東日本げんきアートプロジェクト」を設置、東日本大震災後の被災地での活動なども行ってきました。2021年1月には、小田原での美術活動に対し、小田原市民功労賞をいただきました。美術で評価されたのはとてもうれしかったです。

すどう美術館が入場無料だったり、集めた絵は販売しなかったり、作家に資金提供して見返りを求めなかったり、一貫して思うのは、須藤館長の美術愛は無償ですよね。

須藤:私はいわゆる美術コレクターではありません。絵を転売するなどの目的があって絵を買っているわけではありません。コレクションも作家が有名であるかないかもまったく関係ありません。絵は心の糧であって、美術をより多くの人に知ってほしいという思いから活動をしているので、お金のためではないのです。お金はあった方がいいですけどね(笑)

須藤館長がよくいわれる「アートは心のごはん」について教えてください。

須藤:菅創吉との出会いから始まり、美術とのかかわりを通して、アートは人が生きていくうえでなくてはならないものという思いが強くなりました。それを当初、「アートは心の糧」といっていたのですが、出前美術館で小学校に行った際、1年生から6年生を前に話をする機会があり、「アートは心の糧」という言葉では少し難しいかなと思い、「アートは心のごはん」と小学生でも親しみやすい言葉に替えました。「身体にはごはんが必要でしょう、同じように心にもアートというごはんが必要なんだよ」ということです。話を聞いた方からは、心に沁みたという感想をもらいました。同じように本も心のごはんですよね。

その通りだと思います。須藤館長には今後も図書館に関わっていただきたいと考えていますが、これからについて教えてください。

須藤:子どもの頃は学校の先生とか小説家になりたかったのですが、大学で非常勤講師をすることができましたし、小説ではありませんが本も出版できたので、思い残すことはないんですが(笑)、これまで多くの人との出会いに支えられてきました。「人生は出会い」です。これからも人間関係を大切にしながら、私自身は最初にお話したように絵を描くのはできませんので、文章や講演会などを通して、美術は人生に必要だという思いを伝えていきたいと思っております。コレクション展や私がかかわった作家の展覧会も引き続き行う予定です。


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プロフィール

須藤一郎(すどういちろう)
1936年2月東京生まれ。東京大学法学部卒。
大手保険会社に勤務しながら現代美術を蒐集し1990年自宅を「すどう美術館」として開放。1996年NHK日曜美術館に出演。1998年銀座に「すどう美術館」開設。2007年小田原市に「すどう美術館」を移す。2020年多摩美術大学美術館で「須藤一郎と世界一小さな美術館物語」展開催。2021年小田原市民功労賞受賞。美術に関する講演会実績多数。